かつて通った愛知県内のボクシングジムで、神宮司さんと時折顔を合わせた。挨拶をし、練習の合間に言葉を交わす程度の距離だったが、普段の朗らかさと、黙って拳を動かすときの鋭い横顔が記憶に残っている。
38歳で臨んだ試合。神宮司さんは序盤から前へ出て圧力をかけ、最後はTKOで勝った。戦績は4勝1敗になった。ゴングが鳴れば、距離を測っている余裕などない。数十センチ踏み込めば相手の拳が届き、こちらの拳も相手に届く。逃げるか、前へ出るか。その判断が何度も問われる場所だ。
残るのは勝ち星だけではない。一度、相手に負けた現実がある。力量を思い知らされ、次も打たれるかもしれないと分かってなお、試合に申し込む。4勝目とは、1敗を消した数字ではなく、敗戦を抱えたままリングへ戻った証しなのだ。
練習の合間、ジムの床に座って短く話したときのこと。年齢の話題で、私は身体の残酷なずれを知った。相手の拳は見えている。避ける判断もしている。なのに身体が遅れる。ほんの一瞬の遅れが、リングでは顔面への一発になる。避けるはずだった拳を受ければ、視界が揺れ、間合いも崩れる。頭が分かっているのに筋肉が追いつかない。その悔しさを、私は床に座ったまま聞いていた。
若い頃の動きを取り戻す物語ではない。衰えを自覚した身体で、逃げずに拳の届く距離へ入る。そこに中年のボクシングの厳しさがある。
いちばん生々しく残ったのは、試合前に気持ちを切り替えるという話だ。控え室でグローブを締め、マウスピースをかみ、名前を呼ばれるのを待つ。ほかの試合のゴングが遠くで鳴る。会場のざわめきが途切れ、また大きくなる。まだ殴られていないのに、これから受ける痛みは想像できる。拳を振るう側であり、同時に拳を受ける側でもある。控え室で待つ間、その矛盾から目をそらすことはできない。
普段なら、目の前の人が苦痛に顔をゆがめれば手を止める。だがリングでその優しさを持ち込めば、ためらった一瞬に自分が打たれる。相手が後ずされば詰め、手応えがあればもう一発を狙う。そこで自分の恐怖も、相手への共感も、競技が続く間だけ深く押し込める。敵意があるから殴るのではない。互いに合意した競技だからこそ、普通なら越えない一線を自分の意志で越える。相手の目を見て、出てくる拳を読み、ほんの小さな隙に身体を滑り込ませる。怖さを知っているからこそ、ためらいは致命的だ。
私の解釈では、それは感情のスイッチを入れるより、安全装置を一つずつ外すことに近い。仕事をする自分、家族を気遣う自分、相手の痛みを想像する自分を置き、目の前の拳だけに神経を研ぎ澄ます。
乱暴な比喩をあえて使えば、「殺すつもりでいく」ほどの覚悟で、躊躇を断ち切るということだ。もちろん実際の殺意や、倒れた相手への反則攻撃を意味しない。ルールとレフェリーの制止を守りながら、自分の優しさを理由に勝負を緩めない。その極端な集中を、私はそう受け取った。これは本人が口にした言葉ではなく、筆者による表現である。
怖いのは、殴られることだけではない。相手の表情が変わっても前へ出る「別の自分」を、人は意識して作れてしまうことだ。ゴングが鳴り、勝敗が決まれば、今度は切り離した感情を拾い直す。相手と向き合い、礼をする。ほんの数分で、戦う人間から日常の人間へ戻る。その落差が胸に残った。リングの中に持ち込んだ荒い感情を、外には連れ出さない。もし切り替えができなければ、ただの暴力になってしまう。競技として戦い切り、人間として戻る。その境目に、静かな怖さがある。
私もジムでスパーリングはした。息が切れたときの視野の狭さ、拳が近づく怖さは少し分かる。だが、公式戦の勝敗を背負った経験はない。そこは混同したくない。相手と本気で向き合うときに自分の気持ちがどこまで変わるのか、最後のゴングまで心を保てるのか。私に語れるのは、その人から聞いた輪郭までだ。
聞いた話には、もっと具体的な身体の記憶があった。マウスピースの奥に残る血の味。自分の拳が芯を捉え、体重が相手に伝わる手応え。相手の顔に走る一瞬の変化。恐怖と痛み、そして技術が届いた実感が、同じ数分間に押し寄せる。
誰かを傷つけることを喜ぶのとは違う。長く反復した動きが、本当に動く相手に通じるか。逃げ場のない現実が、身体に答えを返すのだろう。練習で何百回も打った拳が、試合の一瞬で通じる。反対に、どれほど準備しても届かないことがある。だからこそ、勝ち負けは簡単な自己評価で済まされない。
仕事がある。疲れも残る。練習を休んでも叱られず、試合に出なくても暮らしは続く。大人には、リングから離れる理由がいくらでもある。翌日の仕事を思えば、顔を腫らすかもしれない試合へ自分から向かう必要などない。無理をしない方が賢い、と言う人もいるだろう。
それでも神宮司さんは練習を重ね、五度の試合に臨んだ。理由のすべてを他人が決めることはできないが、敗戦の怖さを知ってなお戻るという選択は、4勝1敗の数字より雄弁だ。
勝敗を話したとき、記憶に残った言い回しがある。
負けは負けだ。痛みや悔しさを「いい経験」に塗り替える必要はない。しかし勝って分かることも、負けて突きつけられることも、その後の自分へ持ち帰る。符号は逆でも、経験の重みは消えない。勝った瞬間の手応えだけでなく、負けたあとに残った悔しさも、その人が次にどんな一歩を踏み出すかを変える。
4勝1敗は、一つの敗戦を差し引いた成績ではない。勝っても負けてもリングに上がった五度の時間が、神宮司さんの中に積み重なっている。
神宮司さんの話で忘れられないのは、リングに向かうときの怖いほどの切り替えだ。ためらいを削って相手に向き合い、終われば礼をする。そして勝ちも負けも「絶対値」の経験として持ち帰る。その覚悟は、若さだけでは測れない。