大人になってから競技に挑戦するということ

学生時代より身体は重くなるし、仕事や家庭で自由な時間も限られる。それでも大人になってから競技を始める人には、若い頃とは別の強さがある。うまくなりたい気持ちと、続けたい気持ちを自分で両立させようとするからだ。

スポーツスタジアムの実写写真
Photo: Stephany5757 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
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最初に越えるのは、体力より気後れかもしれない

初めての練習日や大会会場では、自分だけが場違いに見えることがある。周りの人は慣れていて、用具の準備も、身体の動かし方も自然に見える。そこで一歩引いてしまうか、それでも混ざってみるか。その小さな選択が、案外いちばん大きい。

大人の挑戦は、才能の有無より「恥ずかしさを引き受けられるか」に左右されることがある。できない自分を見られること、思うように身体が動かないことを認めながら、それでも続ける。その姿は静かだけれど、かなり勇気がいる。

時間を作るところから、もう競技は始まっている

学生のころは練習時間が用意されていた。でも大人は違う。仕事を終え、家のことを片づけ、少し疲れた身体を引っぱって練習へ向かう。競技場や体育館に着く前に、もうひとつ勝負が終わっている。

だからこそ、一回の練習の重みが変わる。限られた一時間をどう使うか、どこを直したいのか、どこまでなら無理をしてよいのか。考えながら続けるぶん、競技との距離はむしろ大人のほうが濃くなることもある。

若い頃の自分ではなく、昨日の自分と比べる

大人になってからは、誰かに選ばれるためではなく、自分の基準を少しずつ更新するために競技を続ける人が多い。昨日よりフォームが安定した、最後まで足が止まらなかった、怖がらずに前へ出られた。そういう小さな手応えが、次の練習の理由になる。

記録が大きく伸びる日ばかりではない。それでも、前より少しだけ自分を扱えるようになった感覚は確かに残る。大人の挑戦は、派手ではない代わりに、生活の奥でじわじわと人を変えていく。

FOCUS|勝敗より先に、「また来よう」と思えるか

大人のスポーツでは、勝ったか負けたかと同じくらい、「また続けたいと思えたか」が大切だ。苦しかった、悔しかった、でも来週も身体を動かしたい。その気持ちが残るなら、その日はもう十分に意味がある。

痛みと休む判断も、技術の一部になる

若いころと同じつもりで動くと、翌朝になって身体が答えを返してくる。膝、腰、肩。練習中には気にならなかった張りが、仕事へ向かう朝に急に存在感を持つこともある。大人の競技では、その身体の声を無視しないことも続ける技術の一つになる。

休むと遅れるような気がして焦る日もある。けれど、無理を重ねて一か月離れるより、一日引いてまた戻るほうが長く続けられる。頑張ることだけでなく、やめないために抑えることまで自分で決める。その判断も、大人になってから覚える競技の一部だ。

上手い人の隣で、できない自分を隠さない

練習場所には、何年も続けている人がいる。動きは滑らかで、説明される前から身体が反応する。そこへ初心者として入ると、自分だけが遅く見える。しかし、できないことを隠そうとすると、身体はもっと固くなる。

分からないと聞く。失敗して笑う。昨日より一つできたら、それをちゃんと喜ぶ。競技を大人になって始める面白さは、格好よく始めなくてもいいところにある。できない時間を引き受けた人ほど、できるようになった瞬間をよく覚えている。

結果が小さい日ほど、「続けた回数」が残る

大会に出ても、順位がつかないことはある。自己ベストが出ない日もある。そういう日は成果がなかったように見えるが、競技歴を振り返ると、むしろ何も起きなかった日の積み重ねが長い。

雨でも行った練習、疲れていても十分だけ身体を動かした夜、思うようにできずに帰った日。その回数があるから、本番の一瞬に身体が動く。大人の競技では、派手な一日より、やめずに戻ってきた回数のほうが人をつくっているのかもしれない。

ハレのひとこと

大人の挑戦は、若い頃より遅いのではなく、生活の中でちゃんと選び直しているぶん深いのだと思います。

特定の競技者一人を扱う記事ではなく、大人になってから競技を始めたり再開したりする人に共通する感覚をまとめた編集メモです。
編集:ハレ